この日は1限がこれまでの復習。飛ばしていたタカハトゲームの説明をして、これまでのリアクションペイパーでの質問について解説。2限目は「感情の進化」。リアクションペイパーの提出者は現時点で50名。
進化するにつれて,感情が生まれたのであれば,感情豊かな人は人として「適応的」ということでしょうか。
そうでもありません。感情を表出することに適応的な価値があるとしても、より「豊かな」表情が適応的かどうかは別の話だし、また、文化によって表出規則は影響を受けます。
(第3回目)
確認です。418行目は「V > C」で、421行目は「V < C」に書き直して理解したら良いのでしょうか… (例えばの数を式に当てはめたら,式が成り立たないためです)。
(他にも同様の質問あり) その通りです。すみません、これ完全な誤植です。
第6回目についてです。
確認です。118-126行目です。この行内の「一夫多妻」は「一妻多夫」と書き直して理解たら良いのでしょうか (こちらもすでにアナウンス済みでしたら申し訳ありません)。
これも、その通りです。118行目、122行目、125行目と3つありますね……。
とにかく足下が寒すぎてやばいのですが、もう少し教室内の温度はどうにかなりませんか……?
要望してみます。
コミットメント問題について、私は自分の不安感が強いことによっていろいろな利益を得てきたんだろうなと実際的に理解することができました。「このレポート提出しなかったら単位落とすかもしれない…」「勉強しなかったらテストでいい点が取れないかもしれない…」で、不安になってやるから、いままで単位を落としたことはないし、むしろ全体的にいい評価を得られてスカラシップで奨学金もらえました。私は元々自堕落なので、不安にならなかったら進級できていなかったかもしれないなあと思いました。
不安というのは嫌な感情ではありますが、これがなかったらどうなっていただろう、という視点はたいへんいいですね。
ところで、教室の後ろの方で終始話し倒している女がいて非常に不快であったし、授業に集中できなかった。先生の方で気付かれていたかどうかわからないが、できれば注意していただきたいと思う。次回も酷い様であれば、席を立って個人的に注意しに行くことも考えなければならないと思った。
全く気づきませんでしたが、次の授業の最初に私語について一言注意しておこうと思います。もちろん授業中であっても私語が気になったら立ち上がって注意をしに行くことは権利として認めます (僕に言っても構いません)。
私は悲しいという感情が出来たからこそ泣くという身体変化が起こると思います。なのでジェームズランゲ説はあまり納得ができませんでした。
「私はこう思うから納得ができない」というのは学問ではありません。「感情が出来たからこそ泣くという身体変化が起こる」と「思う」のであれば、それが理屈として成立することを他者に説得できなければなりません。なぜ「思う」のか、なぜ「納得できないのか」をさらに考えると深く理解することができると思います。
感情は、脳内物質によって左右されると聞いて機械的だな〜と思ったのですが、中西先生はどう思われますか。
僕は心理学者なので、機械もヒトもヒト以外の動物もみんな同じだと思っています。
感情がどんどん多様に進化していると感じているが,現代の若い世代の人々はあらゆる感情を「ヤバい」という単語で一括りにしているように思えたため,その部分は進化といえるのかよく分からなくなった。
それは文化でしょうね。何でもかんでも進化で説明してしまうのはヤバイと思います。
189~の戸田のアージ理論において200~の進化的適応環境についてダイエットの例で,自分は意思が弱いせいだと思っていたので驚きました。加えて,自分たちの意思が弱いからではないのならダイエットに成功する人と失敗する人の違いはどういったものがあるのだろうと気になりました。
僕はこの冬、絶対にダイエットを成功させるという不退転の決意です。心理学者なんだからできるはず。
そして8回の7ページ158行からの日本での実験の部分で、シナリオ条件で差が見られなかったのは、日本には感情を表す言葉がたくさんあり、例えば「怒り」にも参加者の捉え方にグラデーションができて、表現しづらかった可能性があるのではないかと思いました。
日本語以外にも感情を表す言葉はたくさんあると思うのですが、なぜ日本語が特別だと思ったのか興味があります。
第7回は、第3回の続きの説明だったので少し忘れている部分もありました。ESSとナッシュ均衡の関係性について、第3回小テスト前に読んでいたけれどよくわからなかったところで、改めてテレビの安売り競争の話を聞いてやっと少しわかりました。ナッシュ均衡において突然変異や外から入ってくる存在について考慮しても均衡崩れないものはESSといえる、ということでしょうか。
そうです。
内心は怒っていても愛想笑いをしているなどは日本ではよくありますが、その表情で怒っているのかどうか海外の人には通じにくかったりすれば、それは文化圏で感情表出のルールが共通してはいないということの例になるのでしょうか。
そうですね、文化内では共通していても文化が変わると表出規則に違いが出てくるのでしょう。しかし、だからといって悲しいときにゲラゲラ笑うような文化というのもないでしょう (多分……)。