「社会心理学2010」の感想 (18 May, 2010)

学生から提出してもらった「出席カード」(大きい方) に書かれていた感想・質問・苦情から。正直に言うと「自己」のところって、嫌いだ。概念が複雑すぎるし、似たようなものが多い。研究の意義もおもしろさもよく分かっていない。でも、社会心理学だったら教えておかないとねえ。

血液型と性格の間に関連性がないことは戦前の古川竹二教授の研究の際に明らかになったにもかかわらず

よく勉強してるね。なぜ流行るか、については社会心理学者がいろいろ研究しているけれど、決定的なものはないように思う。歴史的経緯が大きいのかもしれない。日本は戦前から血液型研究で世界のトップクラスだったので。

スキーマについてがよく分からないです。

こういう感想が複数。次回の最初にちゃんと説明しなおす予定。

自分自身を知るのは内部手がかりよりも外部手がかりによるとありますが、自分のことを一番良く知っているのは自分自身ではないでしょうか。

「が」の前後に脈絡がないような気がする。つまり、自分自身をどう知るかという問題と、自分のことを一番知っているのは誰か、という問題は別の問題ではないか。

少年が凶悪犯罪を犯した際、よくメディアは少年の心を闇とし、何かと理由をつけて闇となったルーツを知ろうとする。(中略) 先生はどう思われますか?

いわゆる「専門家」がいい加減に後付けで説明をしているだけで、ほとんど嘘。「心の闇」が云々というなら、これからどの少年がそういう凶悪犯罪を犯すのか、予測する方法を考えてほしい。理由が分かっているなら、予測が可能なはずだ。

自分自身の見方を変えることができれば、自己ステレオタイプ化で自分を置く集団も変わる可能性があるということですか。

ごめん、ちょっと意味が分からない。自分がどの集団に所属するかは、そもそも自分で決めること (押し付けられたアイデンティティのように、そうでないこともあるが) では?

(過去の記憶の再構成について) 「私は親切である」と認識した人が、「お年寄りに席をゆずった」ことがないのに、そういう経験をしたことがある、と思い込むようなこともあるのですか。

ある。

逆に別によい印象を与えたいと思わなかった場合でも自己呈示ってするのでしょうか?

呈示するべき自己は必ずしもよい側面とは決まっていないので、悪ぶったりする時にもそういうことをやる。

客我は、あいくまでも「自分はきっとこういうふうに見られているのだろう」という自分の意識であって、「○○ (私) は周囲からこういうふうに思われている」という事実と異なる場合もないことはないってことですか?

事実と異なる、というより本音と異なることは多いだろうね。

(自己カテゴリー化理論について) 女の子がクラスで似た者同士でグループをつくるのはこれを行動にあらわした結果ですか?

身近な例では、そう。人種でグループができるなんてのも説明できる。

セルフ・スキーマは自己概念と同じ意味だと考えていいのですか。

ちょっと乱暴に言っちゃうと、同じと考えても構わない。研究者の関心によって名前が違うだけなので。こういうところが社会心理学のよくないところ。自然科学では有り得ない。

研究者の人は、専門的な言葉をかたくるしく使うのが好きなのかもしれませんが

ここで君は「研究者」というくくりで、ある人々をステレオタイプ化しているわけだ。わざわざ難しい言葉を使う研究者もいれば、そうでない研究者もいるのに、そういう差異を考えないのが、ステレオタイプ。とはいえ、この問題については、僕も基本的に同意。分かりやすく混乱がない言葉を使うべき。ただ、日常用語と似すぎた言葉を使うと、普段ひとびとが使っている言葉の意味とズレが生じて帰って混乱する。だからそういうときは新しい言葉を考えなくてはいけない。

当たり前のようだが確かに、男性がいないと「女性である」ことには気付かない

深いな、これ。

ターナーの自己カテゴリー化理論の個人的アイデンティティと社会的アイデンティティの図が分かりやすかったです。

やった。まあ、パクりだけど。

板書はわかりやすかった。

ありがとう、でも、板書はしてないんだ……。

感情状態など、内部手がかりよりも外部手がかりによるとありますが、感情って内部のことではないんですか?

感情=内部手がかり、ってこと。なので、「感情状態などの内部手がかりよりも、外部手がかりによる」と、読点を付け直したほうがいいね。

「自律」と「自立」の使い分け、意味の違いは何でしょうか?

そういう疑問が出てきたとき、自分で辞書を引くのが自立した学習者。

過去の自分についての記憶は、「自分は万引きした」とか「自分は人を殴った」とかネガティブな内容だった場合はどうなるのですか?

そのひとの自己概念がどうなっているかに依存する。

心理学を学ぶと自分が考え過ぎだとか、自分の考えとは別に、心理学的な行動をしてしまうということはありますか?

たとえばどんなことだろう? いろいろ行動の理由を解釈してみたくなったりはするかもしれない。

「私はまじめだと思われているんだろうな」というのが”客我”ですか? 「私はまじめだ」となったら、主我ということですか?

客我は他者の期待する役割などを受け入れた自我なので、周りからまじめだと思われているという事実を受け入れて、「私はまじめだ」と思っているとしたら、それは客我。

上手に自己呈示するコツを教えてください。

それが分かっていたら、いま社会心理学者をしていることはないだろうな。

もし、すごく嫌いな人がいて、その人と自分に何か似ているところがあった場合、自分は、その嫌いな人との差異を一生懸命探して「あの人とは違う」と思い込もうとするのか。

それは、まさに「認知的不協和」の話。あとで出てくるので、それまで辛抱。