『シラバス論: 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』出版記念パーティ原稿

12月8日 (日)、芦田宏直氏による『シラバス論』の書籍の出版記念パーティが東京マリオットホテルで開催された。当初30分いただけるということで気合を入れて原稿を書き始めたが、途中で15分となったものである。しかし、当初より予測できていたように、芦田先生は一人で喋り続け、懇親会の時間が全て潰れてしまった。当然われわれの解題講演の時間もなくなったが、それでも10分いただけたので、だいたい以下のお話の重要な部分は話すことができたかと思う。芦田先生のブログコメント欄に載っているものは参照ページ数がないので、若干の誤字を訂正し、以下に解題講演の原稿を掲載しておく (誰が書いたかを明示していただければ転載などご自由に)。

芦田宏直 (2019). シラバス論: 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について 晶文社

大学教員を死に追いやるシラバス改革の恐怖

広島修道大学教授 中西大輔
2019年12月8日 東京マリオットホテル

広島修道大学で心理学を教えております中西と申します。本日はこのような晴れやかな場にお招きいただき、また、このように解題スピーチなどという身に余る光栄を賜り、まことにありがとうございます。今日はいただいた15分の中で出来る限り、本書の魅力、というか、私が主に言いたいのは「怖さ」の点なのですが、そういうところをみなさまにお伝えできればと考えております。

みなさん、ギリシア神話はご存知でしょうか。芦田先生の出版記念パーティに集まられた教養溢れるみなさんのことですから、いちいち私のような者がここで説明することもないとは思いますが、その中に出てくるオデュッセウスのお話です。あの大きな木馬によってトロイを陥落させた知将です。この非常に賢いオデュッセウスがあるとき、セイレーンという精霊のいる海域を航海する必要に迫られます。この海域を通る者は、セイレーンのその美しい歌声を聴くと、たまらなくなって海に飛び込んで死ぬようになるというのです。オデュッセウスはそこを通る際、自身を帆柱にくくり付け、どんなに喚いても決して下ろしてはならないと水夫たちに伝えます。はたして、セイレーンの歌声が聞こえてくると (水夫は耳に蠟をつめていたので、この歌声はオデュッセウスにしか聴こえないわけですが)、オデュッセウスは暴れ出します。ブルフィンチのThe Age of Fableの野上弥生子訳ではこうなっております。「オデュッセウスは身悶えして抜け出そうとあせりました。叫んだり溜め息をついたりして、人々にこの縄を解いてくれと頼みました。けれども船員らは前からの命令を守り、飛び出して来て、なおも厳重にしばりつけました」(T. ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』改版, 野上弥生子訳, 1978年, 岩波文庫)。

経済学者のロバート・フランクはこのオデュッセウスを帆柱にくくり付ける縄こそ、われわれの行動を縛り、「合理的な愚か者 (rational fool)」(A. セン『合理的な愚か者−経済学=倫理学的探究』大庭健・川本隆史訳, 1989年, 勁草書房)」にすることから防ぐ感情の働きである、と議論します (R. H. フランク『オデュッセウスの鎖−適応プログラムとしての感情』山岸俊男監訳, 1995年, サイエンス社)。「ここで喧嘩をしたら損だな」と思って引いてしまう (反社会的勢力の方はこういうのを「イモをひく」と言うそうで、最近ヤクザ漫画を見て学びました)、そういう行動は短期的には合理的ですが、「あいつは何をやっても怒らないやつだ」という評判を立ててしまい、結果としてわれわれ自身の適応を損ないます。さて、自らを帆柱に縛り付けるような行為をフランクは「コミットメント機能」の側面から論じます。短期的に合理的な行動の魅力 (セイレーンの歌声に惹かれること) にあらがうには、強力なコミットメント機能 (帆柱に自身をしばりつける縄) が必要になります。

こうした議論は、文化心理学者ニスベットとコーエンによってもなされています (R. E. ニスベット・D. コーエン『名誉と暴力: アメリカ南部の文化と心理』石井敬子・結城雅樹編訳, 2009年, 北大路書房)。アメリカ南部の白人が衝動的な暴力沙汰を起こしやすいという統計データは彼らの営む牧畜という生業に適応した行動だと言うのです。農作物と異なり、家畜には足がついています。畑にできた小麦を盗むのはたいへんですが、家畜は縄を使って引っ張っていくだけで比較的簡単に盗むことができます。牧畜が主流のアメリカ南部では、したがって、家畜泥棒をどう防ぐかということが大きな問題になってきます。ここで、「あそこの牧場主はチキンだ」という噂が立つことは致命的です。舐められたら家畜をどんどん盗まれてしまいます。「あそこの牧場主はキレやすく、ちょっとしたことで相手を殺してしまう」そんな噂が大事になります。キレやすいという特性は、家畜泥棒を防ぐ上で極めて有効に働くのです。例えばキーについたベントレーが暴力団の家の前に置いてあっても誰も盗みませんよね。しかも、キレやすいという特性は簡単に誰でも真似できることではありません。「実際に」キレやすい必要があるのです。なぜかというと、真似した感情反応は見抜かれてしまうからです。なぜ見抜かれるかという話をここでする時間はないので、キーワードだけお伝えしておきます。「コストリーシグナリング (costly signaling)」という生物学の概念を後で検索してみてください。機能的には全く意味のないオスの孔雀の羽は、それを維持するだけのタフな身体を持っていることの証拠、すなわち、立派な羽はコストのかかる信号として機能するのです。暴走族の竹槍マフラーも同じかもしれません。

今お話ししている内容はまさに芦田先生の宿敵機能主義 (functionalism) の考え方であるわけですが (『シラバス論』p. 339)、僕が言いたいのはここで論じられている感情のコミットメント機能それ自体のことではありません。なんの話かと申しますと、オデュッセウスではなく大学教員を、セイレーンではなくTwitterやビールの誘惑から遠ざけ、まともな授業をさせることの具体的な方法が (かなりの分量の形而上学的な議論とともに) 述べられているのが、この『シラバス論』だ、というお話です。

大学教員は放っておいたらまともな授業をしない人たちなのでしょうか。そう言ってしまうと誤解が生まれるかもしれません。芦田先生の言葉を借りるなら、ペラスを内包するウーシアを論じ、境界に立ち続ける大学教授というのは本来的にその分野に足を踏み入れたばかりの初学者を導く存在であるからです (『シラバス論』p. 399)。しかし、同時に大学教授というのは世俗的な存在でもあります。それは「ほんまでっかTV」を見たり、たびたび研究不正に手を染める研究者のことを思い起こしたりすると実感できるのではないかと思います。

大学教授の評価は研究業績によってなされます。しかも、彼らには職場への忠誠心というのはほぼありません (『シラバス論』p. 356)。特に多くの大学に年俸制が導入されてからは、彼らにとってますます本務校に対する忠誠心というのは意味のない存在になっていることでしょう。外部からどんな評価がなされようが初学者を導くのが大学教授であるはずですが、彼らも(もちろん、私もその当事者の一人であるわけですが)、外的な刺激である評価に敏感に反応する行動主義的な存在なのです(『シラバス論』p. 158)。それはもちろん学者の本来的な姿ではありません。これも芦田先生の言葉を借りると (確か前著を出したときにこういうことをおっしゃっていたはずですが) 100人が100人お前は間違えていると言っても、最後の1人になったとしても、自分の学術的信念に基づく真実を語るのが大学教授だからであります。

しかし、そうした理念は、あくまで理念です。実際の大学教授はビールがあれば飲むし、データを扱えば不正をするし、美人をみれば発情します。不正までいかなくても最近の心理学業界では不適切な研究実践によるデータの信頼性の低さが問題となっておりますが、それも論文数や被引用数、インパクトファクターといった皮相的な評価にいちいち反応する世俗的で人間的な大学教授の存在を浮き彫りにしていると思います。つまり、彼らによい仕事をさせるためには、世俗化させない工夫が必要なのです。

コミットメント問題の話に戻りましょう。そういう世俗的な教授、発情教授にまともな授業をさせるにはどうしたらいいか。「シラバス」です。それも、評価と連動した、使える「コマシラバス」です。芦田式のコマシラバスが必須になれば教員はそのコマシラバスのルールに従って授業準備をせざるをえなくなる。つまり手が抜けなくなるというところが重要なのであります。最も望ましいのは、コマシラバスを導入した上で、「試験センター」を作り、第三者によって作成された試験問題で評価を行うことです (『シラバス論』p. 213)。

もうかなり前になりますが、学部の教授会で、本来評価というものは第三者が行うべきもので、授業担当者が学生を評価するのは原理的におかしいのではないかと発言したことがあります。大学教授にとってもっとも嫌なことを言ってみたわけです。予想どおりの反応がありました。もっとも怒ったのは、今はもう退職したある教育学の教授です。「私の授業は、私以外には絶対に評価できない」と顔を真っ赤にして激怒したのです。私は「先生のご専門は教育学ではなかったのでしょうか」という嫌味を飲み込み、「先生以外に評価できない、というのは客観的な評価に耐えられないということを意味しているのではないですか」と反論しました。しかし、彼が怒るのはもっともなことであったのです。若い僕はずけずけと、言ってはいけないことを言ってしまったのです。試験問題の作成を第三者に委ねることは、自分が行った授業が他者により外的に、客観的に評価されることを意味するからです。実際、カナダの大学院 (一部か全部かは知りませんが) では博士論文は指導教員の入らない委員会で評価されるそうです。通常日本の大学院では指導教員が主査になるでしょう。

自分が学生を評価するつもりになっていたら、自分の教育が評価されていた、これはたいへんなことです。また、「単位認定権」という表現でブラックボックス化された授業内容 (『シラバス論』p. 214) と評価の関係が世間にさらされることになってしまいます。しかも、第三者が試験問題を作るとなれば、自分が一体どういう授業をするのかを、コマシラバスによって明確にしなければならなくなります。試験というのは、教育目標がどの程度達成できたかを示すものですから、何をどの程度の精度で教えるかの情報が必要になります。試験の採点でごまかしが効かなくなり、授業内容も「自由」にできなくなる、となればお怒りになるのはもっともなことでしょう。「セイレーンの誘惑からあなたを守るために、帆柱に縄で縛り付けることをお許しください」そう言われたのです。そうなれば授業準備にこれまでのような手抜きができなくなってしまいます。素点をごまかすという話は本書の中でも出てきます。試験の成績が悪すぎた場合、全ての学生に「下駄を履かせる」ような素点処理をしたことのない教員はいないでしょう。『シラバス論』の中では「素点処理をやっている教員の『単位認定権』も、すでに教員自身の中で二重化しているのだ」(『シラバス論』p. 216) と大学教員が嫌がる絶妙なところを突いています。素点処理ができなくなるということは、本当にたいへんな、革命的なことなのです。われわれは革命によってまさにギロチン台にかけられようとしているのです。

このコミットメント問題解決の最も強力なツールであるコマシラバスが具体化すれば我々大学教員は授業準備から手を抜くことができなくなってしまいます。そういう意味で非常に恐ろしいシステムなのであります。もっともわれわれにとってまずいのが、試験センターの設立です (『シラバス論』p. 206以降の議論を参照)。コマシラバスだけならまだごまかしがききますが、評価が外部化されるとおしまいです。したがって、決してこの本をあなたの勤務校の学長や理事に読ませてはいけません。おそらく今の文科省は学校派の影響力 (『シラバス論』p. 184からの議論を参照) が弱いので、「大丈夫」でしょうが、評価基準の明確化というのはいかにも文科省の好きな表現です。既にアドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーに次いで、アセスメント・ポリシーも求められるようになっています (『シラバス論』p. 169)。まじめにアセスメントをしたければ、アセスメントに耐える業務文書を用意する必要があります。授業ごとにアセスメントを行う業務文書はコマシラバス以外にはあり得ないでしょう。

しかし、私はやってはいけないことをやってしまったという後悔に今さいなまれています。最初にできた原稿には、大学教員にとってまだ言い訳のできる余地がたくさんありました。その余地にいちいち僕がツッコミを入れて言い訳のできない本が出来上がってしまったのです。私は芦田先生にいいように利用されてしまったのかもしれません。

このように、今『シラバス論』を前にわれわれ大学教員は戦々恐々としています。19世記の話ですが、ダーウィンの進化論に接したある貴婦人は、サルとヒトが共通の祖先を持つというキリスト者にとって当時絶対に受け入れられない事実に対してこう述べたと言われています。「真実でないことを祈りましょう。もし真実なら広がらないように祈りましょう」(ところが、どうしてもこれの引用文献が見つかりません。この逸話が嘘でないことを祈りましょう)。

われわれに今できることは本書が広く行き渡らないように祈るだけです。このたびは出版まことにおめでとうございます。

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