コマシラバスに関する芦田先生の論考へのコメント

シラバスとは何かコマシラバスはなぜ必要なのか (ver. 195.0)」についてのまとめと簡単なコメント。

この芦田原稿 (以下、「本原稿」) は近々刊行予定の『シラバス論 ― 大学教育と職業教育と』に収録される書き下ろしのものだそうで、7万字を超える力作である。なお、僕が2003年に北大に提出した博士論文 (200ページ弱) が8万字弱であることからその力作っぷりが分かる (しかし、そんなものと比べるなと芦田先生はお怒りであろう)。ここでは少し本原稿の内容をまとめながらコメントをしたい。

誤解があったため訂正しました (30/5/2019 6:59 pm)。7万字超の最新版原稿に更新されたので、書き直しました (15/5/2019 4:53 pm)。

本原稿では1991年の大綱化によって開放された大学のカリキュラムにおけるシラバスのあり方を論じている。1年次から4年次まで科目を適切に配置し、学生を一定のレベルに仕上げるためにカリキュラムは存在する。しかし、自由選択科目や講座制といった反カリキュラム的システムが科目を講座や教授に従属させてしまっている。カリキュラムを階段状に構成した上で (選択科目を置かず積み上げ式で4年間を構成する)、それを構成するシラバスの履修前提 (入口) と履修判定 (出口) の管理を高い精度で行うために芦田式コマシラバスの導入を行うべきだ、というのが本原稿の大枠の主張となる。

科目が講座や教授に従属するとどうなるか。本来、カリキュラムというのは入口 (入学) から出口 (卒業) までを有機的に接続させるように構成されるべきであるが、それぞれの科目が独立してしまうことによって学生の履修過程を管理できなくなってしまう。例えば経済学Iと経済学IIはいったいどんな関係にあるか。当然後で学ぶIIはIの内容を受けた、より高度なものであるはずだが、それぞれの科目が別の教員によって独立して運営されているとIIよりIの方が難しい、という妙な状態に陥ってしまう。経済学Iと経済学II程度であれば管理している大学もあるかもしれない。しかし、膨大に存在する選択科目についてはどうだろう。学生によってどの科目をどの順序で履修するかが違う状況でどうやって学生を育てるのか、という批判である。

コマシラバスによる15コマ分のマイクロなレベルの積み上げ式カリキュラムと、124単位 (以上) からなるマクロなレベルの積み上げ式カリキュラムという入れ子式構造を持つ教育によって4年間かけて目標とするレベルまで学生を育てるというのが芦田式のカリキュラム論である。

もちろんカリキュラムを構成するというのは各科目の接続を管理するということでもあるので、カリキュラムの作成とコマシラバスによる履修前提、履修判定の管理は一体のものである。コマシラバスのないところにカリキュラムは存在しない。

本原稿ではコマシラバスについて予想される批判に対して抜かりなく議論が展開されている。芦田式コマシラバスは教案ではなく、「使う」シラバスである。内田樹の批判 (シラバスを前もって読んで授業の内容を判断できるのなら、学生はもともと授業を受ける必要などない) は「使う」シラバスに対する無理解から来ていると主張する。シラバスは受講前だけではなく、受講中、受講後評価が加わって初めて機能する、というわけである。「シラバス」という用語を使ってはいるが、芦田式シラバスはもうほとんどそれ自体が教材である。そう考えると、添付されている詳細なコマシラバス案の見方も変わってくる。「こんなシラバスを作成するのは面倒だ」と思う大学関係者は多いだろうが (僕もそう思うが)、これが授業で「使う」ものだとしたらどうだろう。

「未知の発見」に出会うのが教育の場であるという内田の批判についても、「手品の種明かし論」に留まっていると厳しい。確かに「分厚い博士論文や分厚い著作 (あるいはたくさんの著作) を熟読しているからといって、その人の (今更の) 講義を聞く気にはならない」とはならないものである。純文学作品には反復して読む価値があるというのと同じような話だろう。

詳細なコマシラバスは生き物である授業を平板化する、というのも予想される批判である。しかし、芦田によればそれは書かれているシラバス自体が平板なのである。

非常に高い精度で論じられるコマシラバス論であり、極めて合理的である。とはいえ、こうしたコマシラバスが完全に機能するためにはいくつかの条件があるだろう。

まず、専門分野とは異なる科目を教えるような状況をなくさなければならない。芦田式コマシラバスを書くにはその分野で論文を1本書ける程度 (文科省的にはそれでよいのだろうが) ではなく、単著を1冊出せるだけの力が必要である。そこらへんの誰かが書いた教科書を使って即席で行う授業ではコマシラバスに耐えられない。書き下ろしの教科書が書けるだけの力が要請される。

「時間がない」と言い訳をさせないだけのゆとりのある教員の採用計画も必要になるだろう (ここらへんは僕の大学教員としてのポジショントークも含まれるが)。これは膨大な選択科目を減らすことで達成可能かもしれない。この点について芦田は科目の種類を20種類から30種類に減らすことを提案している。1週間に6科目を教えるのではなく、3科目を2回ずつ教えるようにすればいいというわけである。教員にとっても学生にとっても一度に教える (学ぶ) 種類が減るのでメリットは大きい。なお、広島修道大学では最近4学期制を導入して1科目の授業を週に2回行うことになった。再履修クラスを設けることができたり、1週間に2回同じ科目を行うことによって集中して教えることができる、といった点はよいものの、問題がないわけではない。教養科目や外国語科目がこの制度を導入していないし、学科内でも演習 (いわゆる「ゼミ」) や卒論指導はやはり毎週行ったほうがいいだろう、という判断が働いた結果、2学期制と4学期制が並列して動くことになってしまったのである。しかも科目数は減らせなかった。4学期制を導入するなら一斉に導入しないとそのメリットは享受できないし、科目数は積極的に減らす必要がある。次のカリキュラム改定ではこの点を再度検討する必要がありそうだ。

いわゆるゼミと呼ばれている輪読形式の演習授業などの場合、コマシラバスはどのように作るべきか、ということは本原稿を読む限りは分からなかった。学生に論文を検索させて、その論文を順に発表したり、外国語で書かれた文献を一緒に読むような授業で精度の高いコマシラバスを作ることはできるだろうか。卒業論文ではどうだろう。そうした科目自体をそもそも廃止するべきだということなのかもしれない (がそういうことは特に書かれていないので想像である)。さらに言えば大学院での指導もこのような形で可能だろうか?

このようにいくつかの難しい点はあるものの、大学教員としてはなかなか反論できないのがコマシラバス論である。自分の授業が他者の作った履修判定試験によって評価されることを想像するとき、多くの大学教員は冷や汗をかくであろう。正直、つらい。