「集団力学2011」の感想 (17 May, 2011)

学生から提出してもらった「出席カード」(大きい方) に書かれていた感想・質問・苦情から。「意志決定」じゃなくて「意思決定」ね。タクシー問題の説明はやっぱり分かってもらえなかったなあ。

ゲームが強いからだとか、PCに強いからだとかで、ゲーマーとか呼ばれちゃうのは、ヒューリスティックですよね!

まあ、「ゲームに強い」ってのは「ゲーマー」ってことだと思うけどね。でもゲームの弱いゲーマーもいるか……。

ヒューリスティックは、文化的な影響とかありそうですが、どうですか。

授業で扱っているのは、汎文化的な現象。

合理的な意思決定をしている方が少ないんじゃないかと思ってしまいました。

まさに、そう。人間は「合理的」には行動しない。

話変わりますが、ツイッターでの先生の写真かっこいいですね!

実物ほどじゃないけどね。

(ヒューリスティックスから抜け出せないのは) 実生活において問題がない。または、問題があっても自覚がないということでしょうか。

多くの場合、ヒューリスティックスに従うことで実害がない (むしろその方がよいことが多い) から、そうなっているはず。

アルゴリズム体操〜♪ っていう番組があるじゃないですかー。あれってそういう意味があったんですね。

あれってそういう意味なのかなあ? ヒューリスティックス体操ってどんなの?

マークシート式のテストのときに「連続で同じ答えになったから次は違うだろう」と考えることや「1、3、1、3という答えになったから、次は”1″が答えかな」と考えてしまうことにも言えるのでしょうか? それともコイン投げとは違って、問題を作成した人の思惑が存在するので「ギャンブラーの誤謬」とは呼べないのでしょうか。

確かに、試験問題の解答は独立事象かどうか、難しいところだねえ。どうなんだろう?

犯罪心理学者という肩書きも多少私達の判断の誤りに関係していると考えていいんでしょうか。

専門家が言ったことだから、というのはよくある思考停止で、誤った判断を導く。授業で習った事だって、ちゃんと批判的に考える必要がある。

今さらですが、教科書は書った (原文ママ) ほうがいいですか?

教科書というのは、買わなければならないものです。「自己責任」でどうぞ。

どのようにしたら間違った選択をしている人々に気付かせられるのでしょうか。

間違えるのには間違える理由がある (直感的に分かりやすい、とか) ので、なかなか訂正をするのは難しい。論理的に説明はできるが、それをしたからといってそういう行動がなくなるとも思えない。むしろ、そこまで影響力が強いということは、生活のあらゆる場面でそういう考え方をした方がうまくいくのだ、と考えた方がよさそう。

生徒の質問

大学には「生徒」なんていない。「学生」。

考えを重ねれば重ねる程、より良い意志決定が出来ると私は思ってきました

必ずしもそうではない。むしろ考えを重ねることによってより極端な決定をしてしまうかもしれない。思い込んでいたら訂正は難しい。

ちなみに私は3バカその1です。

分かります。

とある本に、情報如何では記憶は大きくゆがめられてしまうとあったんですが、その話は今日の意思決定に影響を与えるという話題とは違うのでしょうか。

関係あると言えばある。記憶は意思決定と当然関わってくるから。

私はiPhoneをいまいち使いこなせず

とりあえず、Googleカレンダーを使って予定をiPhoneで管理しなさい (参照)。あと、大学のメイルアドレスをiPhoneで読めるように設定しなさい (参照)。mixiやっているならmixi Browser mini、Twitterは、まあ、公式のTwitterアプリでいいかなあ。

熱はかるまではけっこう平気なのに、熱をはかって割と高かったりするととたんにしんどくなる気がするのは心理学に関係ありますか?

おおあり。「情動の二要因理論」で説明できる。熱を測って体温を確認することによって、「ああ、自分は今結構きつい状態なんだ」ってことを認識して、ますますきつくなる。情動は人間の内部 (熱できついこと) から来るだけではなく、外から (体温計を見たこと) もやってくる。

リンダ問題で、仮に、「公務員、銀行員が何らかの社会運動に関わっている」確率が高いというデータがあり、それを知っている人がそれを元に判断すれば、論理的なので

間違い。単に銀行員である可能性 (A) と、銀行員でかつ社会運動に関わっている可能性 (B) の比較であり、Bの可能性がAを上回ることはあり得ない。BはAに含まれるので。

(ギャンブラーの誤謬について) じゃんけんを何回かやって、全て負けてしまった時には全て勝ったりそうでもなかったりする時と同じ確率なのに、こんなに連続で負けるなんてありえないと思って自分は運が悪いなと考えてしまうのと同じなのでしょうか?

「運が悪い」とか「流れが乗っている」というのも似たような現象だよね。