シラバスとは何か ― 大学のシラバス主義には何が欠けていたのか 2009年02月02日 (芦田宏直)
大学のシラバスの優劣を判断することは簡単なこと。文字数が科目担当者によってバラバラな大学シラバスは、ほとんど儀礼的なシラバスにすぎない。各教員が勝手に書きまくっているだけである。
カリキュラムは、一つの教育目標に向かって、科目間の横連携+縦連携、つまり科目ヒエラルキーが厳密に組み立てられている場合にのみ存在する。
その場合には、シラバスは学生サービスでも、自己確認書でもなく、他の科目との接点を求めて科目のinput (受講前提) とoutput (学生仕上がり) とを明確に記したものになる。
ここで紹介されているシラバスを見ると、われわれの作成しているシラバスがいかにいい加減でダメなものか思い知らされる。残念ながら多くの学生はシラバスを読まずに授業を履修しているようだが、シラバスを作成する側がいい加減だから、学生もこうなるのだろう。学生の質保証をもっとちゃんと考えるべきだ。なんて書くと、TOEIC400点で単位認定を行ってきたE-Learning英語の肩を持つようだが、具体的なゴール (400点) と大きな教育目標がリンクしていないようなシラバスでは意味がない。なぜ400点という具体的なゴールを設定するのか、議論はどのくらいなされたのだろう。社会に送り出したい学生像と、その400点とがどう関係するのか。その議論をちゃんとした上で400点という目標を設定するなら意味がある。もちろん、うちの大学の学生全員に400点を取らせるような体制作りをするためには、スタッフの増員、外国語教育センター (ないし高等教育開発センター) のような支援部署の充実が欠かせないだろう。金も人もなくて成果は達成できない。大学側にどのくらいその覚悟があるかが重要だ (新しいカリキュラムではE-Learning英語がなくなるようだから、当初から大学側には何の覚悟も信念もなかったということなのだろう)。