「大学院教育」を考える

今日、夕食を頂いているとき、ぷつんとボタンが飛んだ。見ると、ズボンのボタンだった……。最近は頭頂部が次第に薄くなり、大学院生時代よりも10kgほど肥えたこの身体はすっかりおじさんだ。ところが心は大学生時代とあまり変わらない (成長していない)。プロペシアは保険が利かないから高いし、今日院生に勧められた塗り薬……あれ、なんだっけ……忘れちゃった。見てたら、書いてください……I君。まあ、そのなんとかと言う塗り薬なら保険が利くようなので、かかりつけの皮膚科医に出してもらおうかと思った次第。本格的にハゲては遅いのだ。ハゲは別に嫌いではないけけど、イタリア人みたいなセクシーなハゲになるのは極めて難しい (ステレオタイプ)。セクシーなハゲならむしろばっちこいなのだが。

こんな話を書きたいのではなかった。ビールを飲んで酔っぱらって語るような内容ではないのだが、「大学院教育」について考えてみようと思ったのだった。僕自身は北大の行動システム科学講座 (社会心理学研究室) で理想的な「大学院教育」を受けたと思っている。あの講座の教育は全く系統的ではなかったし、いわゆる「座学」によって教わることはほとんどなかったけれど、研究者として「使える」人材を育てることには実によく成功している。副作用としては、知識が足りない。北大の院生は学会でのプレゼンはよいけれど、ものを知らない。「お勉強」は各自の自助努力に任せられているからだが、実験で忙しくてお勉強にそれほど時間が割けなかったのだ (というのは言い訳で、勉強をしているひとはちゃんとしている)。だから、北大の社会心理を出たひとはたいてい海外に行って勉強をする。僕は海外に出る前に就職が決まってしまった (これはかなりの幸運だが) ので、未だに勉強が足りない。

かくいう僕も、この大学では大学院教員の一翼を担わせていただいているのだが、いわゆるふつうの「授業」を大学院時代にほとんど受けなかったこともあり、どうしたらよいのかよく分からない。大学院での授業は修士時代からほとんどがリサーチミーティングであったからだ。研究を進める上では極めて効率的なこのシステムは、基本的にスタッフの専門が非常に近いからこそ実現可能なやり方だ。「院ゼミ」は毎週全教官が参加して行われる。つまり、講座の全スタッフが基本的にすべての院生の研究内容を把握しているのだ。これは、よほど分野の近い教官が集まっていなければ実現できないシステムである。今担当している授業の履修者はI君一人だけで、一緒に研究をさせていただいている (つまり、毎週リサーチミーティング) ので、あまり問題はないのだが、履修者が複数になった場合、僕はいったい院生に対して何を提供できるのだろうか。

課題をあまりに多くするとその院生の研究の進展に邪魔をするのではないかと思ったり、その院生の指導教員の研究指導とズレがあったらどうしようかと思ったり、といろいろ悩む。あるいは、定員を全く満たしていないうちの大学院をなんとかしなければならないのではないかとか、下手に学生を進学させてしまうと、その学生の将来に責任を持たなければならないのではないかとうじうじ考えてしまう。いずれにしても進学希望の学生が出てこないことにはどうしようもないわけだが、進学させることが彼/彼女のためになるのかどうかとかそういうことを考えるとまた迷ってしまう。とはいえ、うちの大学に来て6年になるので、そろそろうちのゼミからも進学者を出したいなとも思う。誰か進学したい人いない?